Slow Luv op.2 -2-





(5)


 クリスマス・コンサートの打ち上げと、忘年会を兼ねた飲み会でさんざん飲んだ夏希は、二日酔いの典型的な症状で朝を迎えていた。月島芸大学生オーケストラ団員の四回生は、この演奏会が弾き収めだ。。だからその打ち上げでは例外なく、どの学生も自分の限界以上に飲んでしまうのだった。どこからどうやって帰ってきたのか、夏希の記憶は飛んでいた。
 あくびで吐き出された息が、まだアルコール臭を帯びている。
「おはよう、頭いたーい…、クスリない?」
 パジャマ姿のまま居間に入ってきたそんな我が娘を見て、母親は遅い朝食の用意の手を止めて、ため息をついた。
「二日酔いに効くのなんてないわよ。まったくもう、いい年頃の娘が、二日酔いになるほど飲むなんて」
 ため息をつかれた夏希は、言われたことを気にする風でもなく、テーブルのサラダ・ボウルからプチトマトをつまんだ。母がその手を軽くはたくと、トマトはボウルの中に戻った。
「先に着替えてきなさい。エツがお友達を連れて泊まってるから、そんな格好でウロウロしないで」
 母がコンロに目を戻すのを確認して、夏希は再度プチトマトをつまみ、今度は口に放りこんだ。
「友達? 誰? エースケさん? それとも秋本くん?」
「初めての方よ。だから早く。お兄ちゃん達はもう起きてるんだから」
「へいへーい」
 もう一つトマトを頬張った。着替えに戻ろうと体を向き直した時、ドアが開いた。
「エツ兄! 昨日、聴きにきてくれた?」
 入ってきたのは悦嗣で、夏希は抱きついた。酒臭い息に年の離れた兄は、顔をしかめた。
「行った行った。おかげで疫病神に捕まったけどな」
「何それ? あれ?」
 夏希は悦嗣の後ろに誰か立っていることに気づいた。
 首を伸ばして見る。確かに今まで兄が連れてきた友達の中にはいなかった顔である。が、まったく知らないというわけでもない。
 相手は夏希と目が合ったので、軽く頭を下げた。右目の下のホクロに目が止まった。
「えっ、もしかして中原さく也…さん?」
 付け足したような敬称は、さすがに呼び捨てはまずかろうと言う、一瞬の判断からだ。
「夏希、早く着替えてきなさい」
 母の再度の促しは、少し怒りモードだった。夏希は舌をぺロッと悦嗣に見せて、今度こそ素直に居間を出て行った。
 悦嗣はさく也にテーブルの席をすすめた。母が温めた味噌汁を二人の前に置いた。
 立浪教授から悦嗣とさく也が解放されたのは、夜中の二時だった。
悦嗣はそこそこ自分の酒量を知っているし、立浪教授の前で酔いつぶれて、意識の無いうちに何かを承諾させられることを警戒し、努めて注意していたので、最後まで正気を保っていられた。
 かたやさく也はと言えば、知らぬ間に眠ってしまっていて、泊まっているホテルも聞き出せない状態だった。たまたま悦嗣の実家に近く、連れ帰ったのである。妹の夏希が遅かったせいかまだ母は起きていたので、ちゃんと布団の上で眠れたのは助かった。
「あの子ったら、幾つになってもガサツで困るわ。やっぱり男兄弟に囲まれて育ったせいかしらね。ちゃんとおはようって言った?」
「言ってない」
と、悦嗣が言い終わらないうちに、どたどた足音も高く夏希が居間に戻ってきた。
「おはようございます! 先ほどはどうも失礼しましたっ。私、この『不肖な兄』の妹で夏希と申します」
 まっすぐさく也の方に歩み寄りその手をとると、握手した。ぶんぶんと音がしそうな勢いである。
 さく也はされるにまかせ、かろうじて「どうも、中原です」と呟いた。
「感激、ホンモノに会えるなんて。昨日、後輩が中原さく也が来てるって言ってたけど、本当だったんだぁ」
 そこから先は機関銃の如き単語の羅列が、延々と続く。血縁者たる母も兄も口を挟めないのだから、赤の他人のさく也など太刀打ち出来ない。それでもその目に嫌な色は見えなかった。彼女の天真爛漫で嫌味のない性格が、人を不快にさせないことを悦嗣は知っている。
 それに――さく也と二人ではさほど会話は進まない。六月に成り行きでクインテットを組んでステージに立ったが、親交を深めるには至らなかった。何しろ悦嗣がコンサートに出ることが決まってから本番までは五日ほどしかなく、その時間はすべて練習に費やされたからである。それ以後、会う機会もなかった。
 そして――さく也の自分に対する気持ちを、悦嗣は図りかねていた。打ち上げの夜のキスの意味も、空港ロビーでの言葉の意味も。
 夏希のおしゃべりな性格は、朝食の時間を明るくしてくれる。だから無理に止めようともしなかった。




(6)


「ユニークな妹だな」
 食べ終わってから悦嗣は、離れのレッスン室にさく也を案内した。言葉の洪水の中に浸かるのにも、さすがに限界が見えてきていたので。
「一日一緒にいたら、耳鳴りがするぞ」
 エアコンのスイッチを入れながら、彼の言葉に答える。噴出し口から温風が流れた。
 振り返り、今度は悦嗣が聞いた。
「兄弟は?」
 壁一面は書棚になっていて、楽譜が並んでいる。さく也は近寄って一冊を手に取り、頁をめくった。
「弟がいる、双子の」
「双子?」
 悦嗣は意外に思った。てっきり一人っ子と言う答えが返ると予想していたからだ。お互いの家庭環境まで話す間柄にまだないから、親兄弟の影が見えないのはあたりまえだが、それ以上に、彼はそれを想像させない。
「へえ、同じ顔がいるのか」
「二卵性だからあまり似てない」
 次の答えは素っ気なかった。なので会話もそこで終わり。悦嗣は夏希の才能を実感した――このさく也相手に途切れる事無く喋りつづけることが出来るのは、一種の才能と称することが出来よう。それは立浪教授にも言えることだった。あちらは年の功も加わっているので、計算も入って始末に負えないところがある。
 中原さく也は月島芸大で模範演奏をすることになった。プロの演奏家に頼むのだから、本来、相応のギャラが発生するのだが、彼はそれを受け取らないかわりに、立浪教授にある条件を呑ませたのである。


『加納さんの講師の件をしばらく引っ込めて頂けませんか?』


「おまえ、なんであんな条件出したんだ? 共演の話なんて無いだろ」
 楽譜に目を落としていたさく也が、悦嗣を振り返った。
「あんたに貸しを作っておくのも、面白そうだと思って」
 悦嗣はポカンと口を開けた。またもや会話が途切れる。
 さく也は四、五冊楽譜を選ぶと、悦嗣の座るピアノの上に置いた。どれもヴァイオリン・ソロの楽譜である。もとは悦嗣の所有物で、伴奏の課題や学内演奏会で使用したものだった。卒業してからは使うこともなく、家を出る際に置いていったので、ずいぶん久しぶりに目にする。
「どれか弾ける?」
「もともと俺の楽譜だ。このチャイコ(チャイコフスキー)は、スケルツォなら弾ける。ヴォカリーズもよく弾いた」
「じゃあ、この二曲にする」
 ラフマニノフの『ヴォカリーズ』とチャイコフスキーの『なつかしい土地の思い出』を残して、あとの楽譜は片付けられた。それからその二冊を、悦嗣に渡す。
 悦嗣は顔をしかめた。渡された意味はわかっていた。
「俺?」
「弾けるかって、ちゃんと確認した」
「立浪はバッハのシャコンヌを期待してたぞ」
 シャコンヌはバッハのヴァイオリン・ソナタで、無伴奏の難曲。酔って眠ってしまったさく也は覚えていないことだが、立浪教授はこの曲を演奏してもらいたいと悦嗣に話していた。無伴奏ヴァイオリン曲の頂点に立つ曲この曲は、プロの演奏家ならレパートリーに加える努力をする。
「一人で弾くのは好きじゃないし」
 さく也は考慮する気もなさそうだった。「弾けないから」と答えないところをみると、彼もやはりプロなのだ。
「ここは使わせてもらっていいのか?」
「夜なら構わないと思うけど。わかってんのか? 俺は仕事あるんだぞ」
 クリスマス・コンサート等々で調律の依頼が毎日入っている。それとなく断っているつもりだが、わかってくれているとは思えない。と言うよりも、聞く耳持たない風情がある。
 それに今ひとつ強固に断れないのは、悦嗣の指が鍵盤を懐かしがっているからだ。六月に聴いたあの中原さく也の『音』を、もう一度感じたがっている。
「ヴァイオリンは?」
 プライベートの旅行だと聞いている。ウィーンからの距離を考えると、仕事でもないのに、大事な楽器を持ってきているとは思えない。彼くらいの弾き手が使っているヴァイオリンは、そこそこ銘器のはずだ。
「持ってきたよ。あんたと弾くつもりだったから」
 さく也はさらりと答えた。
 悦嗣はため息をついた――まったく、どいつもこいつも。
「わかったよ。この二曲だな?」
 そしてわくわくしている自分も、気後れしている自分も。




 夜、マンションに戻ってPCのメールをチェックする。ここ数日開けていなかったので、ダイレクトも合わせて結構な数のメールが入っていた。その中に曽和英介の名前を見つけた。悦嗣はそれをクリックした。彼からのメールは約一ヶ月ぶりだ。
久しぶり。元気にやってるか? こっちは演奏会続きで忙しい。移動も多くて…
 英介の口調そのままの文面を読み進む。彼の近況が目に浮んだ。どんなに忙しい毎日であっても、きっと楽しそうに演奏しているに違いない。英介は本当にチェロが好きで、単純な音出し練習でさえ嫌がらずにこなしていた――「音がきれいに鳴るのが、嬉しいんだ」と。
 目元に笑みが浮ぶのを、悦嗣は止められない。
…そうそう、さく也がWフィルに入ることになった。オーディションの演奏は、すでに語り草だ。主席団員以外は聴けないきまりなのが、本当に残念だよ。正式入団は来年早々だから、それまでオフを決め込んだらしい。日本へ行くって言ってたよ
「もう来てんだよ、エースケ」
 読み終わったメールを閉じながら、独りごちた。
 昼間、仕事道具を取りに戻った時に持ち帰った楽譜『ヴォカリーズ』と『なつかしい土地の思い出』が、机の上で悦嗣を誘っている。手にとって開いた。ラフマニノフもチャイコフスキーも好きな作曲家だった。コンクールや試験向きという事もあって、よく弾いたし、弾かされた。
 立浪教授から日程の連絡が入り、さく也が了解したので、ウィーンに帰る前日の午後に月島芸大の大講義室での模範演奏が決まった。
 この状況を知ったら英介は、
「やっぱり、弾きたくなっただろう?」
と無敵の笑顔で言うに違いない。そして反論出来ない自分の姿を、容易に想像できた。
 中原さく也とは、二日後の夜に最初の音合わせを予定している。
 悦嗣の指はすでに臨戦態勢だ。あの時の吐き気にも似た緊張感ではなく、陶然となる瞬間だけを思い出している。
 あきらかに半年前とは違う。音を知ってしまった指は、悦嗣の感情などお構いなしだった。
「まったく…仕様がないな」
 その独り言は、何に対してなのか。零れた言葉は、静まり返った部屋の中に飲み込まれた。




(7)


 ぽたり…と、手首を霞めて水滴が落ちた。悦嗣には自覚がなかった。その水滴の出所が、自分の目であることに。顔を上げて頬をそれがつたった時、初めて涙だということに気が付いた。袖口で拭う。指が微かに震えていた。
 演奏会でもなんでもない。場所は実家のレッスン室で、ピアノは国産。ヴァイオリニストとピアニストの二人きり、そしてただの音合わせ練習――なのに、この涙はなんだろう。
 さく也の方を見ると、ペグで弦を調整していた。淡々としたその表情に、無意識に高揚した悦嗣の涙腺は、ようやく落ち着いた。それでも耳には先ほどまでの『ヴォカリーズ』の余韻が残る。
――なんて音…出しやがるんだ
 緩急と強弱のタイミングを、簡単なデモ・プレイで打ち合わせた後、まず『ヴォカリーズ』から通した。
 半年ぶりに聴いた中原さく也の音。アンサンブルのそれではなく、ソリストとしての音が悦嗣を圧倒した。感傷的なヴォカリーズの旋律をより一層に際立たせて、悦嗣を包み込む。
「…ンポ、遅すぎた」
 頁を戻しながら、さく也が何かを呟いた。やっと悦嗣の意識は『今』に戻る。
「え、あ、何だっけ?」
「粘り過ぎたかも知れない。重い感じ、しなかったか?」
 楽譜から目を外して、彼が悦嗣を見た。その目が少し見開かれる。「はっ」と悦嗣は目をぬぐう。左目の端に、涙がまだ残っていた。
「…そうだな、も少しあっさり弾いてくれ。俺の涙腺が緩む」
 言い訳しても仕方ない。これが英介なら、さり気なく突っ込んでくれるところなのだが――「もっと泣いてくれていいんだよ」とか「エツにしては殊勝な言葉だな」とかなんとか――、さく也は何も言わないタイプな上に、間が中途半端に開いて、悦嗣の言葉は置き去りにされた。
「じゃあ、もう一度、通していいかな」
 彼の声にも変化はなかった。ただ譜面台に向き直る際の横顔に赤みが差し、再度通された『ヴォカリーズ』は、思った以上に速いテンポで始まった。その音はまるで彼の照れを代弁しているかのように、軽やかだった。しかしそれも最初だけで、曲が進むにつれて冷静さを取り戻したさく也の弓は、速度も安定し本来の音を紡ぎだす。そして悦嗣もようやく、演奏者としての自分を取り戻すことが出来た。
 続けて『なつかしい土地の思い出 第二曲スケルツォ』を通す。打って変わっての軽快なアレグロに、悦嗣の指は緊張した。引き込まれる隙を与えられない。どちらかというと速い曲調が得意な悦嗣には、この曲は弾きやすいし心地よい。
「ここのピアノは、子供も弾きやすいようにハンマー軽めにしてるから、ちょっと走りがちになるんだけど、入りはあれくらいで良かったのか?」
 悦嗣はハ短調のスケールを弾いて聴かせた。母の好みで柔らかい音がする。
「良いと思ったけど。中間部のレガートをあまり遅くしたくないから、あれぐらいのほうが対比が出て面白い。あんたは速い曲の方が得意なんだな?」
「性格がせっかちだからな、次の音を待ちきれないんだ。それにおまえと演るなら、アレグロかプレストのがいいよ。緩い曲は聴きこんじまって、あのザマだ。ああ、だからってヴォカリーズはあまり速くするなよ。さっきは、も少しあっさり弾いてくれって言ったけど、最初の方が音にあってるし、気持ちよさそうだった」
「あれは…」
 さく也が口篭もった時、母屋側のドアが勢いよく開いた。例の如く、ノックはない。
 悦嗣は前髪をかき揚げながら、
「だから、ノックくらいしたらどうなんだ、夏希。今日は俺だけじゃないんだぞ」
と、入ってきた夏希を嗜める。休憩用に母に頼んでおいたコーヒーが、トレイに乗って彼女の手にあった。カップは三つ、自分の分も忘れていない。
「ごめんなさい、さく也さん。エツ兄も」
 彼女はさく也に向っては丁寧に、兄にはあきらかについでで向き直って謝った。
「俺は母さんに頼んだんだけどな」
 カップを受け取りながら悦嗣が言うと、夏希は口をへの字に曲げた。
「ずるいよ、エツ兄。来るなら言ってくれればいいのに。わざわざ外から入ったりして。ほんっと、ケチなんだから」
「言えば、こうやって邪魔しに来るだろうが」
「ひっどーい! 私だってちゃんとわきまえてます。今日だって、おにぃの車で気がついてたけど、休憩まで我慢したんだから」
「休憩ってのは、『休む』『憩う』って書くんだ」
「可愛い妹が、憩いにならないっての?」
「うるさい妹は、邪魔なだけです」
 夏希の口は、今度は大きく息を吸い込み、頬をプーッと膨らませた。
 さく也は二人のやり取りを、口をはさむでもなく見ていた。さすがに夏希も恥ずかしくなったのか、それ以上は悦嗣に反論しなかった。
 コーヒーを飲み終える間、夏希のおしゃべりがつづいた。物怖じせずさく也にいろいろと質問する。言葉数は少ないものの、さく也は嫌がらずに答えた。
 夏希はそのまま残って練習を聴いていたい風だったが、悦嗣は許さなかった。いつもならもっと粘る彼女も、中原さく也を前にしては、やはり調子が出ないらしく、おとなしく引き下がるほかない。
「どうせ来週には聴けるんだから、その仏頂面やめろ」
「せっかく演奏者の妹なのに、なんの特権もないなんて」
 引き下がりながらも、未練がましい夏希であった。
 そんな彼女のために、さく也は『タイスの瞑想曲』を披露した。もちろん伴奏は悦嗣で、夏希は『妹の特権』を行使出来たわけである。こういう思いやりある行為が、さく也から出ることは、悦嗣には意外だった。もっと芸術家肌で、気難しい質なのかと思っていたので。
――案外、普通なのかもな
 心なしか演奏中のさく也は楽しげに見える。そんな彼を見ながら、悦嗣はそう思った。




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